『ゲド戦記』映画制作秘話大公開!宮崎親子の壮絶なる7つの戦い

『ゲド戦記』映画制作秘話大公開!宮崎親子の壮絶なる7つの戦い
ゲド戦記で有名な話の一つに必ず宮崎親子の大喧嘩があげられると思います。最近の子供は悟り世代などと言って親に歯向かわず、かといって何かを主張するわけでもない事なかれ主義な子が多くなったように思えます。そういう中ではこの親子二人の喧嘩は、内容はどうあれ(笑)お互いを気にかけ、互いの意思を強く主張しあったという点では全国の親子さん方にも参考にしていただきたいですね。では映画の製作上でどんな壮絶な戦いが繰り広げられたのかお伝えしましょう。



 

『ゲド戦記』映画制作秘話大公開!
宮崎親子の壮絶なる7つの戦い

 


1・序章


そもそも宮崎五郎さんを監督に推奨したのは宮崎駿さんのパートナーでもあるプロデューサーの鈴木鈴木敏夫さんなんです。「ゲド戦記」映画化の可能性を探るために、研究チームを立ち上げました。メンバーは鈴木敏夫プロデューサーに若手のアニメーター、石井朋彦プロデューサー、そして宮崎吾朗さん。鈴木プロデューサーは、「ゲド戦記」のスタッフの一人として宮崎吾朗さんを起用したのですが、打ち合わせを重ねていくうちに、「これは吾朗君に監督をやってもらった方が良いのでは…」と考えるようになり駿監督に直談判しに行ったのです。

 


2・ナウシカは代わりだった?


実はゲド戦記をアニメ化しようという話は前から案としてありました。ではなぜ駿監督はゲド戦記をアニメ化しなかったのか。それは原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンさんからOKが貰えなかったからなんです。それもそのはず、ゲド戦記と言えば(日本国内だけの話ですが)「指輪物語」「ナルニア国物語」に並ぶ世界三大ファンタジー小説の一角。当時はまだそれほど有名ではなかったトップクラフト(スタジオジブリの前身)では荷が重いというモノでしょう。

それから20年後にアーシュラ・K・ル=グウィンさん「となりのトトロ」を見て大絶賛。もし映像化するとしたら、この人をおいて他にいないだろう!とまで言われ、直々にアニメ化のお誘いがあったものの駿監督は、「これが20年前なら、喜んで飛びついたのに……」とこれを拒否。時期的に、「ハウルの動く城」を作っている最中であり、「風の谷のナウシカ」以降の作品は「ゲド戦記」にインスパイアされて作られていたということもあり、いまさらアニメ化するモチベーションが無かったとのこと。これが研究チームの立ち上げにつながるわけです。

 


3・しぶしぶ承諾


当然、駿監督はこれに反発。「あいつに監督ができるわけがないだろう。絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」とボロクソ言う始末だったそうです。そこで鈴木プロデューサーは吾朗監督にイメージ画を描かせ、『竜とアレンが向き合う絵』を描きあげました。駿監督はそれを見て唸り黙ってしまったといいいます。

そして吾朗監督に「お前、本当にやれるのか?」と3日間も問い続けましたが、それでも吾朗監督は監督をやると返答し続け、ようやく駿監督は五郎監督を認めたという。鈴木プロデューサーはこれを聞き、はなむけに一枚描いてくれと頼み、その絵がホート・タウンの町の原型となるイメージ画となりました。勿論これでハッピーエンドなどではありません。まだまだ戦いは続きます。

 


4・親子戦争勃発


というよりすでに親子間の確執が生まれつつありました。五郎監督に問い続けた三日間で「本当にやる気があるのか?」、「やる気がある!」「やる気がない」で机を叩きながらの怒鳴り合いになり、以降口をきいていない状態になったり、息子の仕事の進行具合が気になっている様子を見かねた鈴木プロデューサーが、製作スタッフを集め、すき焼きパーティーを催したものの、出来具合を女性スタッフに訊ねると「ミヤさん(宮崎)が引退した後、ローンの支払いをどうするか心配をしていたが杞憂だった」と言い、「ふざけるな!」とヘソを曲げたり。。

挿入歌CD発売記念記者会見にて五郎監督はMCのかっこいいですね、という質疑に対して「父に似ていないといわれるのがとても嬉しいです」と答えるなど映画製作から完成まで終始険悪ムードだったんだとか。

 


5・原作者茫然


2005年6月に鈴木プロデューサーと吾朗監督は、原作者に監督をする承諾を得るためアメリカへ行くことを予定していたところ、駿監督は「吾朗がやると決めたじゃないか」「監督というのは少しでも時間があったら、1枚でも多くの画を描くべきだ。原作者と交渉するのはプロデューサーの仕事だろう!」と一喝したそうです。そこで鈴木プロデューサーに「じゃあミヤさんが来てくださいよ」と促され、仕方なく駿監督と鈴木プロデューサーがいくことになります。

面会の場で、駿監督は昔書いた「ゲド戦記」などのスケッチを見せ、自分はあなたの原作小説を片時も離したことはない。自分が困ったときや悩んだとき、何度ひもといて読み直したか分からない。それぐらい読み込んで、あるときには助けられ、あるときには救われた。だから、この本に関して、自分はすべてを知り尽くしている。この作品を映像化するとしたら、世界中で自分をおいて他にはいない!」と言い切ったのだとか。しかも五郎監督が描いた『竜とアレンが向き合う絵』を見せ「ドラゴンと少年が正面から向かい合っているという構図を選ぶ時点で、こいつはなにより『ゲド戦記』を理解していない証拠ですよ!」と罵り自分の絵を高々と自慢。流石に原作者も「あなたはいったい何をしに来たんですか?」とあきれる始末。

 


6・かつての自分のように


2005年の暮れになって駿監督は鈴木プロデューサーにいきなり「今からでも間に合うから吾郎を降板させて、俺に監督をさせろ」と言い出します。作品が完成直前にも関わらず吾朗監督に対する確執は消えず、また「カリオストロの城」で「監督一作目にしては良く出来ていた」と評価された事に強い恨みを持っていた駿監督は、「俺も同じように“監督一作目にしては良く出来ていた”と言ってやる」と宣言していました。

しかし同時に奮起した言葉でもあったと鈴木プロデューサーは語っています。自分と同じ道を歩ませることで息子を成長させようと思ったのか、それとも確執の延長なのか。もはや私には分からないです。

 


7・そして公開


映画に関して駿監督は見に行くつもりはなかったそうですが初号試写に来て作品を見たそうです。その際煙草のために席を離れ、「気持ちで映画を作っちゃいけない」と語りました。
しかし後に色彩設計の保田道世さんにアトリエで、「初めてにしてはよくやったっていうのは演出にとって侮辱だからね。この1本で世の中変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。 変わりゃしないんだけれど。 変わらないけどそう思ってやるのがね、映画を作るってことだから」と話し、保田さんを通じて「素直に描けていて良かった」と五郎監督に伝えています。

 

如何でしょうか。

以上が宮崎親子の、壮絶なる戦いです。鈴木プロデューサーは「宮崎駿は俺がやってもこうなったといっているんです。五郎君は親父の描いたものを見本や参考にして作っていたのでしょう。でもそれを見た宮崎駿としては、当然そこから進化していなくてはいけない。そこへの不満があった」と話しており、五郎監督も「コクリコ坂からが終わって思うのは、ゲドをやってからじゃないとやはりコクリコは作れなかったと思うんです。宮崎駿と同じことをやろうとしても無駄なんだとわかりましたから」と語っています。

これだけ激しくぶつかり会い確執が起こっても最後にはどんな形であれ「さらにいい物を作る」という互いの意思が理解しあえたように思えます。確かに家族と喧嘩するのは気が引けますが、何もせず過ぎ去るよりは互いの意見を言い合いより良いものにしていくべきなのだろうと、この二人の喧嘩を見て私も少し考えさせられました。

 

まとめ

『ゲド戦記』映画制作秘話大公開!
宮崎親子の壮絶なる7つの戦い

1・序章
2・ナウシカは代わりだった?
3・しぶしぶ承諾
4・親子戦争勃発
5・原作者茫然
6・かつての自分のように
7・そして公開